YOLO日記
2025.02.20
人と人とのコミュニケーション
なかなか人とのコミュニケーションって難しい。
毎日顔を合わせる人であったとしても。
コミュニケーションといえばシン・エヴァンゲリヲン。←唐突だなぁ。おい。
テレビ版が始まって27年。
テレビ版が始まったときはちょうど高校生で、リアルタイムではなく、夏休み特番で平日の午前10時半から11時で39チャン(福井テレビ)で放送してました。
あの当時見た感想はと言うと・・・「他人は所詮自分の心の中なんてわからないし理解できないんだ。」と思ったのを覚えています。
すごく深く、この感情って自分が体験しないと、この脚本やシナリオはかけないと思って当時見ていました。
(今思うと私、どんな少年時代を過ごしてるんだ?)
その後、新たな映画が出来て今でいう「旧劇場版」と言われるのを見に行った時に思った感想が
「あー。人類が補完され、みんないなくなった。そして、アダム(碇シンジ)とイブ(アスカ)のように知恵の実を得た2人の世界をもう一度作ることがその人にとっての生きる場所の創造ということなんだ」と感じました。
色んな状況(セカンドインパクトやサードインパクト)に追い込まれ、その中で社会(エヴァに乗る)に合わせて生きてきた結果、「自分の価値なんて自分にしかわからない。」他者に認められたところで、それは一過性のものでそれを批判する人がいたり、一つの失敗などで認めたことをなかったことにしてダメな人間としてみたり。
だからこそ人類補完計画を発動させて他者と自分の一体化することが最大限で自分を認める唯一の方法になったんだと思っていました。
また、私個人としては旧劇場版ってすごく納得のいく終わり方でした。
良くも悪くも天地創造の根底はこうなのかもと思ったりもしました。
※あくまで個人の見解です!「この解釈は違う!」と批判せず、「理解」を求めることが大切だと思います!
まー、一般的には「すごく理解できない!あんな終わり方では誰も救われない!」なんて言われていて、
庵野さんは悩まれた(どうやったら庵野秀明を殺すかなどのスレッドがあったみたいです。)結果、
「エヴァンゲリヲン・序・波・Q」を作り、紆余曲折しての「シン・エヴァンゲリヲン」。
再構築された集大成。
以前は見ていなかったのですが、あの後見てみた感想で言うと・・・。
過去へのとらわれというものについて前を向く足かせになっているかと率直に感じました。
過去というものには「思い出」という記憶が存在します。
そこにどれだけの人が出てくるか?
碇ゲンドウの記憶にはユイ一人しかいません。
息子である碇シンジはいないのです。
終盤にシンジが父親のゲンドウにこう言います。
「その弱さを認めないからだと思う。わかっていたんだろう?父さん」と。
シンジがさんざん振り回された根底には、死んだ妻への愛情という亡霊にすがり続けるゲンドウの寂しさでした。
しかし、ゲンドウが探し求めていたユイはシンジの中にあり、ユイがゲンドウに伝えたかった言葉はシンジが言った言葉なのだと思いました。
あ、最後にもう一つ。
視点を変えてアニメ「エヴァンゲリオン」を独自で読み解いてみたいと思います。
全体を通して主人公の碇シンジを見てみると、些細な事を大きくとらえ、常にできない。逃げちゃだめだ。なんて言っています。
けども色々な人と出会い、関わっていくことで今一度ゲンドウと向き合っていくことをしていきます。
人とかかわること、等身大の自分というものと向き合うこと。
それから目をそらさずしっかりと向き合うこと。
新たな視点でエヴァンゲリオンをみると「庵野秀明」が感じた当時の思い、生きづらさ、生きるという部分を見ることが出来るかもしれません。
また、庵野さんは好きなことをして生きるためには命を削ってでも作品を作る。命よりも作品が上と公言されていました。
また、庵野さんを取り巻くスタッフも同じように「命を削ってでも作ります」と言っておられ、テレビの中のインタビューで「なぜ、庵野さんと仕事をするんですか?」という質問に対して「好きなことをさせてもらって仕事をしているから」と言われてました。
その代わりスタッフと庵野さんとのコミュニケーションにはとてつもない時間を費やしています。いくつもいくつも会議をして庵野さんの頭の中にあるものを掘り起こし、理解し、形し、完成間近のところをすべて白紙にしてまで再度作り上げる徹底ぶり。←だからシンエヴァンゲリオンはこんだけかかったんですがw
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