YOLO日記
2020年07月
2020.07.29
素直がいちばん
文章を書くのは自分と向き合うこと!ということで、今週も向き合ってみます(^^)
どこかで聞いたことが在ります。
「外見は内面の一番外側」
「『言葉』は自分の感情に似合う服を着せたもの」
それを聞いて、
着飾るのでは無く、身だしなみに気をつけねばと思い、言葉を使う時も、今の言葉は本当にこの気持ちに当てはまっているか?と考え、丁寧に言葉を使いたいなと思っています。(どちらも自分なりに、ですが・・・失敗ばかり・・・(><))
思うのは、選ぶことの難しさ。
結局、自分なりにしか選ぶことなんてできないのはその通りなのですが、選ぶときに色々考えてしまいます。
見る人、聞く人は、どう思うだろう。
そう思って、無い正解を求めて、本末転倒、自分の気持ちに似合わないもの(言葉)選びになってしまったり・・・
でもやはり素直がいちばん。
周りがどう思うかも大事ですが
いちばん大事なのは、自分はどうしたいか。
なかなか実行は難しいですが、
素直にいたいと思います。
2020.07.21
教育と・・・子育て?
少しずつ第2波が迫って来ている日々ですが・・・。
引き続き密に気を付けていきたいと思う日々です。
そんな中、先日保護者懇談に行ってきました。
コロナの影響もあり、先生との面談もついたて越し(犯罪者ってこんな感じなのかなと思いました)で会話をしていました。
また、先生との面談も自身が行くのは初めてでした。
主に話をする内容としては・・・
学校での過ごし方
勉強の得意不得意
家での状況
などなど・・・。
大体話をするのは決まっていて。
先生たちも悩まれているみたいでして。
保護者に言いづらいことを伝えるということが過度なストレスなんだろうと感じました。
こちら側から子供たちの課題を指摘するとわかっていただけているという感触が伝わっているということで話がすらすらと。
結局、一人10分といっていたところを2人合わせて1時間もしゃべって帰ってきました。(ほかの保護者の方ごめんなさい)
ところで・・・
そもそも教育って何なんでしょうか?
誰のための教育なんでしょうか?
教育基本法
前文
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
とあります。
国の未来を切り拓く教育の基本というものの中で教育基本法が作られており、第1条にはこう書いてあります。
第1条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
とあります。
また、教育の目標としては
第2条
- 第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
- 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
- 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
- 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
- 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
- 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
- とあります。
要は国家・社会に対して必要な人材を育成し教育するための法律だということです。
では、この教育から外れる人たちには教育は必要ないのでしょうか?
結論からすると必要。ですが、教育をしなくていいと昔は言われていました。
実際に1979年までは養護学校(現特別支援学校)というものは存在しておらず、障害児などは学校教育法18条の規定により就学することを免除もしくは猶予されていました。
学校で学べない。じゃあどこで誰が代わりに教育をしたのか?
1979年までは重度障害者は親が先生の代わりをして我が子に教えていたのです。
また、施設などにいた子供たちは職員が先生になり教育をしていました。
学校という場所がないところでも様々な角度から教育というものは行われており、ニーズはそこにありました。
障害福祉の父といわれる糸賀一雄は発達の保障というものを訴え近江学園を作り発達教育を独自で行う一方、国は免除という形で障害者への教育というものから目を背けていたのかもしれません。
現在共生教育を進めていく一方、障害を持った子供がクラスにいることで授業が進まない、集中できないなどの声により教育の幅がせまい状態があります。
学力も大切ですが、一人ひとりの社会力をつけていくことこそが教育基本法の前文にあった「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」につながるのではないのでしょうか?
そのためにも集団と個別のバランスを改めて見直す必要があると思います。
コロナの影響で教育が変化している今、社会力にも目を向けた新たな教育を学校・地域が共有して作り上げていきたいものです。
2020.07.16
振り返り大事
そう言えば…
以前のブログで、「続きは次回~」 みたいなこと言ってたなと(^^♪
「…でも、原点回帰するためには、
自然と自らが知ること、知ろうとすることが大事で。
で、この「知ること」ってのが、人間が成長するためには………ってのはまた次回★」 (6月17日)
って(笑)
で、有言実行せねばということでその続き。
人間が成長するためには段階があって、
第一段階【無意識 無能】 =知らないし、できない(分からない)
第二段階【有意識 無能】 =分かってるけどできない
第三段階【有意識 有能】 =意識していればできる
第四段階【無意識 有能】 =意識していなくてもできてる
これに関して書くにも考え方によってはパッと二通りあるけど、
『障害』というテーマで考えたらまた壮大。
健常者と呼ばれる人が第四段階なことも、障害ある人は第二段階か第四段階、
だからサポートが必要だよねという考え。
今回は、人間が成長していくためには~って話ですので、
もうひとつの『個人』というテーマで、
何かを習得していくためにはステップがあるということ。
最初は誰しも無。
「初めてだからできな~い」のは当たり前。
当たり前を恐れるなかれ。
試行錯誤や失敗=成長である。
(かのアインシュタインも「失敗は成功と同じくらい貴重で、積極的にしていきたい」って言ってる。)
余談で、
とある出来事であっても、考え方であっても然り。
そういうことがあったんだということや人の考え方を知り、
疑問が浮かび、それをひとつひとつ払拭して、
やっとストンと落ちる。
(そこまでしないのはそこまで興味がないんだと思う(笑))
あとは、対人支援に関わっていたら特に、一方の話だけ鵜呑みにしてはいけない。
これ鉄板。
あちらこちら脱線したけど、
やっぱり失敗した分だけ、人生の厚みになる。
分厚い人生を送ろう(笑)
今日はここまで(´ω`*)
2020.07.14
「総合的かつ包括的な相談援助」
覚え書きも併せて…
社会福祉士の職務は、「総合的かつ包括的な相談援助の担い手」であるらしい。
(総合的と包括的の違い…
総合的→まったく別なものでばらばらのものを一つにまとめる
包括的→一つに合わせて締めくくる
分かりにくい…(^-^;))
そして、地域を舞台に専門性を発揮することが求められている。
医師や看護師の業務独占の資格とは異なり、社会福祉士は名称独占の資格。
福祉職も人間だから~…は重々承知で、
そんな専門職と呼ぼれる人に「助けて(聞いて)ほしかったのに」と思う過去がある。
…こんなことをひたすら勉強するようになってからだろうか、
はたまたそういうお年頃になったのだろうか、
我ながらやっと『社会』というものを見るようになった気がする。
それまでは、政治も経済も言わば“他人事”で、分からなかったし、分かろうともしなかった。
選挙権もしなっと18歳以上になったわけだし、
もう少し早く、子どもの教育の段階から自然と社会に対して興味をもつ機会があればな~
なんて思ったりもする。
でも、大人になって「もっと勉強しておけばよかったー」と思うのと一緒で、
何事もタイミングというものがあるから押し付けは難しいのだけど。
黒板に向かうだけでは学べないこともたくさんある。(むしろ、それが大半)
とりあえずは、情報過多な現代。
それを見定める、聞き分ける鍛錬は必要。
2020.07.06
ヘルパーの心構えとは
パーソナルアシスタンスであれ!
お陰様でyoloにも介助者が増えて来ました!
せ〜っかく、障害福祉に携わった訳なんだから、自分の人生にとっても有益な経験としてもらいたいよね。なので、ここで一つ、
介助者たるものとは!
をガツンと言っておかなければなるまいて。
個人的には“介助者の基本スタンス”だと思っているPA(パーソナルアシスタンス)。
介助者とは、あくまで、その利用者の“プライベートの介添え”なんだから、
『社会(組織)の論理が働き制限がかかる』や、
『個人の価値観を押し付けて介助をする』
は基本的にナンセンスなわけだ。いわゆる“手足論”だね。
理解するには、『自分が利用者(障害者)になった時』の事を想像してみればいい。
当然だけど、自分の価値観・自由を尊重してくれない介助者なんてイヤだよねー 私生活が思い通りにならないなんて発狂するわw わかりやすくね?
将来の自分のためにもという視点も大切☆
でも、よく『堕落した生活を正さないといけない。身近な我々が一般的な価値観に矯正していく役割!』と勘違いしている介助者も多いよね?
介助業務は、“他人”の生活を間近で見てしまう仕事。あくまで覗き見しているだけであって、最も身近な介助者がその利用者にとって“他者”であって良いわけがない。しかし、利用者は“他者”であるということは常に意識しなければならない。その人生の主体は誰なのかってことよ。上に立っちゃイカンよ!
※他者 ⇒ コントロールが出来ない(してはいけない)存在。
ex:“私達に都合のいいように他者があるべきでない”
そんな訳で介助は、根底的な意味ではサービス業ととても共通している。
ならば介助者を選ぶことも肯定されなければならない!というPA制度の理念 ←ここは全くその通りだが、現実とはとても矛盾してしまうのは悩みどころ…
…と、向き不向きは当然ある業務だが、心掛けとして『介助者は他者であり、異物でもある』という自覚を根底に持ち、その都度のタイミングで立ち戻って振り返ることを忘れてはならない。 …その気持ちが伝われば、人情的に接してくれる利用者は多いよ!
その考えは、正に差別を無くす為のユニバーサリズム的価値観だと思わないかーい??
自分の将来も見据えてやろうぞ☆
先ずは、業務としてでも“他者を尊重する”ことから始めてみて。
障害者だって当然人間なもんで、その内に介助者のオリジナリティ(他者性)も認めてくれるはず。
あくまで※信頼関係が築けたならの話ですよ!信頼関係あってのPAってことだね。
※“郷に入っては郷に従え”。その基本が出来なくてどうして信頼関係など築けようか
いや〜奥深すぎて自分には向かないやw …いや、まだ初歩やで初歩W
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