YOLO日記
2025.06.27
枠の中で生きる?
この社会で生きるには、限りある個人の予算(資本)の中でやり繰りするしかない。
お金の話で例えるが、
一般的に当たり前で合理性のある話だし、そうする以外に方法がないような理屈だと感じるが、
人は往々にしてそれを超えてしまうことがそこそこに観測される。
例えば、思わぬ出費に対する調達。
事故や身内の肩代わり等や、会社の運転資金の調達などがそれに当たる。
また、それ以外にも、自ら思わぬ(?)出費をしてしまう
者も少なからず存在しているのは確認できることだろう。
この後者に関しては、一般的には自己責任と社会からは突き放される行いだと自分自身内面化している。
しかし、前者に関しても「想定できたのでは?」とされることも往々にして言われるし、それを不可抗力とするのならば、後者も障害(特性)の文脈的に、ある意味『他者性的』な不可抗力とも言える部分は少なからずあるのだと考えることはできる。
性格の違いとも言えるし、
堅実なのは特性だとできるし、
堅実では無いのも特性だ
とできる。
また、経済的な側面で考えるならば、
むしろ堅実で無い方(浪費癖)が好都合であったりもする。これ弱いよねぇ…
結局、程度問題的にはなるが、借金を返せたならば免責とされ、返せなかったら烙印を押されることになる。
この場合も、資金繰りで借入れて、結果、返済不能に陥ったとしても自己責任とはされるが、世間的には同情を買うだろう。
しかし、個人の借入れに関しては、社会は非情なのだと感じている。
その理由は理解できるとも思うし、何が違うのか分からない、とも思う。
おそらく、貨幣交換の社会となった時から
このディスアビリティ/ハンデキャップは生まれたのだろう。
多くの人間にとって、貨幣交換社会は便利なものと言える。
しかし、一部の少数派にとっては、ある意味『障害化/病理化』の原因とも言えるのだと。
とはいえ、その者達にとっても社会的利益はあるのだから一概にディストピアとも言えない状態だとも思える。
実際問題、多数派をメインストリーム(稼ぎ役)として置かないと成り立たない社会において、
この問題は
改善すべき課題として良いものか否か
という議論もあるのだろう。
だからと言って、少数派に蓋するのも理想的な社会だとは言えない。
社会には常に犠牲がつきまとう。
それを自己責任とするのは簡単だが、それについても一応の解答を見出さねばならないと考えるが、中々…
引用
『因果が逆だと思うな。
"マジョリティに有利な社会が形成されている”というが、”たまたま現環境に適応したので勝ち残った”っていうのが生物学的にも社会学的にも正しいだろう。ってなると、ルールを多少いじっても、また同じような奴が勝つだろうっていうことだ。
体力とか覇気とか、その辺の必要最低限の成功要因ってのは、代えがたい要素だよな?
てことは、障碍者や平凡な一般人における成長や成功、幸福ってのは別の場所にあると考えて、さっさとこの東京という過密、過競争のゲームから降りるべきじゃないのか?って俺は思うね。』
このように、たとえ熟議を重ねても
結局全ては『言葉遊び』だった
とも言える悲しい結論も有り得る。
『すべき/すべきではない』の均衡。
また、この社会構造だからこそ、弱者も生きていけるという側面も無視はできないだろう。
それでも考える必要性はあるのだと思う。
現時点での結論は、スタートラインを整えることとする参加の平等性かと思う。
これは先ず、合理的配慮をしっかり行なった上で、経済合理性の競争の中に、ある種の可能性を持つ者を可能な限り包摂していくということなのかもしれない。
ただそれだって新しいメリトクラシーに置き換わることだって有り得るわけで…
ぐるぐる考えて
でもやはり、能力のありなし、努力できるできない問題について、
『たまたまそう生まれたから』は無視できる事象とはしてはいけないとも言える。
所詮、物事は相対的なのだから。