YOLO日記
2020年09月
2020.09.25
実務者研修
実はただいま、研修真っ只中の受講生です。
実務者研修とは、2012年4月にスタートした資格です。
介護福祉士国家試験受験のために
基本知識・技術を学ぶための研修と位置付けられています。
2016年度以降の介護福祉士の受験には、
実務経験3年に加えて、この実務者研修の修了が必須となりました。
・・・そんな資格です。
個人的には資格を取るための資格に???ですが、
同受講生の中には介護職経験のない方もいて、
福祉の間口が広がったともいえるのかな?とも思いました。
大人になっても、まだまだ勉強することはありますね。
最後まで頑張ります(^^)/
2020.09.19
夏から秋へ
すっかり日は落ちて、涼しさを感じる季節になりました。
今ほどテレビを見ていると手筒花火を上げる企画をやっていまして。。。
花火の歴史を学んでいましたw
花火というのは江戸時代に上げる事をするようになったと。
太平の世に火薬を作るのを禁じた徳川家康はひそかに地元三河の豊橋で火薬を作る技術を伝統としてひそかに受け継いでいました。
作るだけでは増えていく一方になるので年に1回火薬を消化するため竹筒に火薬を詰め、打ち上げる事をしたそうです。
今の打ち上げ花火とは違い、手筒花火で火薬を噴射する形が原点との事。
今でも手筒花火を上げる文化があるみたいです。
花火をあげる事で無病息災を願う事もこの時期だそうです。
コロナの影響で医療従事者などに上げる花火もここからきているんですね~。
また、花火大会などで出てくる「たまや・かぎや」などの掛け声は
実は当時有名な花火屋の名前なんだそうです。
今年は花火大会ありませんでしたが、来年こそ見れますように・・・。
2020.09.11
申請主義
サービスを利用するにあたり、自主的な申請を必要とする。
「今あなたはこのような状態だから、これ使ってくださいね」なんて連絡はこない。
=申請主義
1990年代の社会福祉基礎構造改革以降、
措置制度から契約制度への移行が進み、
福祉サービスがその人の選択や申請によって提供されるようになりました。
申請主義は、その人が選択と申請が可能な状態にあることを前提としてますよねぇ?
じゃ、そのような状態、能力がなかったら…?
今、自身が障害福祉という分野にも携わっていて、かつ親の高齢化にも直面していて、
“狭間”を感じることが多々あります。
まず、
➀ 本当に辛い時こそ、人は「助けて」と言えないケース。
➁ 客観的に見て生活に直結しているだろう辛さを抱えているのに自覚していないケース。
➂ 助けてほしいけど、誰にどうやって伝えて良いか分からないケース。
今の制度、窓口として思いつくのが、
障害福祉であれば、その地区を担当する相談支援事業所、またその相談支援専門員、
高齢福祉であれば、地域包括支援センター、居宅介護事業のケアマネさん。
他、福祉相談所にもなんでも相談できる窓口が設けれられていたります。
それでもね…
みんな相談しないんですよ…
そもそも、その窓口を知らない。
そして、相談できる人とできない人がいる。
結局、個々人の気力と行動力が問われます。
細かな例があれば「あぁ、私該当するかも…」とも思えるのに、
「こういう人は相談してきて!」って具体的宣伝に乏しい気もします。
実際体験した話、
施設に在籍しているワーカーさんも、
施設の中で平穏無事でいてくれればOK、
施設を出るってなったその時には橋渡しはしますよのスタンスで、
その間の本人や家族の真のニーズ、ビジョン設計のアドバイスの関わりはない。
(「教えて!」と言ったら相談に乗ってくれるのかもしれませんが、
ここからすでに申請主義)
本来、余裕を見せなければならない相談窓口が、
悲しきかなひとりが抱えるケースが多かったり、業務に追われているのも事実に感じます。
これはその窓口が悪いわけではなく、そもそも論としてなんとかしなきゃな話ですが。
社会保障、社会福祉制度は、憲法第25条を体現するためのもののはずなのに、
“申請”でしか受け付けませんよなんて…。
人に相談するという行為自体が、
どうしても「弱みを見せる」「迷惑をかける」と思いがち。
だけど、自分の問題を他者の協力を得ながら解決するということは、
大きな問題を抱えていない日常や仕事上であっても、
生活していく上で必要な能力であると思います。
そんな生きる力は個々人が身に付けていかければならないけれど、
一方でそれは個々人で差があるもの。
本当に支援が必要な人に支援は届いていない。
まだまだ埋もれているはず。
じゃ、どうする??? どうすればいい???…って考える、考える、考える。
2020.09.07
原理原則
ついに来ました…
福井にも地震。
先週の金曜日に震度4。
そしてその後も余震が続いています。
さらには台風。
ただでさえコロナ禍。
余計にザワザワ、ザワザワ…ザワつきますよね。
この不穏な感じをお祓いできればいいのですけど。
でも、原理原則は受け入れる。
=起こることの根本的要因や理由と、どのような規則性があるか、どのような規則性にすれば良いか
「人生、勉強」とはよく言ったもので。
ただ、漠然とした不安ではなく、奇跡を願うでもなく、何もしないでもなく。
受け入れるためには、やっぱり知ろうとして掘り下げていかなきゃならないってことねぇ。
「福祉=幸せ」と言われます。
あまりキレイごとの話は好みませんが、そういうことだと思います。
世の中がザワついて、動かない時だからこそ、動くべき仕事。
原理原則を受け入れ、
自身が地に足付けていなければと思います。
2020.09.04
ここいらで人生を振り返る
今まで自分の生い立ちを語って来なかった。それは褒められた人生を歩んで来た訳ではなかったから。マイノリティだって自覚するからなんだろう。
思えば、小五までしかまともに学校へ通っていない。登校拒否って言葉が一般化するずっと前の話。中学も数ヶ月のみ。確か、高校も同じくらい。
では何をしていたのか?
引きこもりだった。
周りの目を気にして
外に出られなくなった。
自分の将来に絶望していた。
毎日死ぬことばかり考えていた。
理由?
コレだ!と言うものは、無い。
なんだか小三くらいから自然体で生きれなくなっていた。周りが何を考え思っているのかと恐怖を抱いていたんだと思う。とにかく学校へ通うことが辛かった。自分が何者なのか分からなくなった。
引きこもりを抜け出したのは20歳ぐらいの時。
どれだけ人生に絶望していたとしても、なんだかんだ生きて来た。その事実から、死ぬ時まで生きてみようと思い始めた時期でもある。
キッカケは家族の強い扶助。…というより、一家最大の危機を救うため、とある寿司屋へ丁稚奉公する事になった。もう自己にこだわってはいられない。
寿司屋の定休日は月1あるかどうか。朝から日付が変わるまで働いていた。気が付いたら以前とは真逆の生活を送っていた。
1年ほど寿司屋にいて、そこから障害福祉(自立生活運動)の道に入った。これはお客さんからの勧め。
ちょうど支援費制度が始まった年。もう17年ほどこの世界にいる。
他者を尊重すること、他者の人生を見守ること、が自己の無い自分には合っていたのかも知れない。身近な他者(利用者)から生き方を教わったとも言える。そういう意味では素直な介助者だったのだろう。利用者から気に入られることは多かった。人生のリスタート、育ての親は重度障害者達だった。
昨年、色々あって独立する事になった。同じ福祉観を共有する仲間たちと共に。
お陰様でYOLOも一周年。
順風満帆では決して無い。何故かこの仕事(活動)に集まる仲間はキズを持つ者が多い。これからも社会の流れから省かれた・乗れなかった不器用な者たちが集まる場所なのだと思う。それは自分だって同じ事。
『だからこそ福祉を体現できる!』っていうのが理想像。
この世界には、共に生きる技法として重度訪問介護があった。…いや、あるのだということだろう。それに救われた人生なのかもと思う。
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