YOLO日記
2021.08.16
炎上?
ソーシャルメディア界隈では騒動がない日は無い。
リアルタイムで情報が入ってくる現代では、それについて民衆が議論する機会も多い。
それはそれで良いことではあるが…
ポリティカル•コレクトネス
→ 人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。
キャンセルカルチャー
→ 個人や組織、思想などのある一側面や一要素だけを取り上げて問題視し、その存在すべてを否定するかのように非難すること。文化的なボイコットの一つ。
ルサンチマン
→ 社会的な弱者・被支配者が抱く、強者・支配者に対する怒りや憎悪、嫉妬などの感情である。ニーチェはルサンチマンを「弱者側の道徳感」と捉えた。弱者は強者に対する憤りを行動に移せない。そのため弱者は、想像の中で復讐心を膨らませて心を慰めるのだいう。
人は失敗するものであり当然失言もある。そのことは誰もが身に覚えがあるはず。
・あるコミュニティで問題無く通っていたことが、別のコミュニティで問題になること
・その世代での共通観念というものもあり、今更変えられない(変えることが難しい)考え方
・そして、思っているのはまだしも、言葉(行動)に出してしまうことはNGだ
とかがある。
他にもあるだろうが、これらは本人だけの問題だといえるのだろうか?
そして一回の失敗で社会的に抹殺される正当性とは?
現代のネット社会は、それらに対して“正義”を振りかざし、完膚なく叩き潰す力が働きやすい。
ソーシャルメディアでは民衆は扇動されやすく、ルサンチマン的な流れに乗せられやすい。
そんな見せしめで今日も消えていく者たち。
そもそも、それって本気で問題だと思って乗っているのか?が疑問。
差別反対!とは声高に叫ぶけど、その権利の陰で取り残されていたり、割り食っている人々のことまで考えられているのか。
ダブルスタンダードな意見も多く目につくのは、やはりルサンチマン的なガス抜き勢が多いという証拠?
そんなものであっても多数派に入っていたいのだろうか。だって社会は何も変わっちゃいないぜ?
ルサンチマン(2)
→ 例えば、有名人のゴシップ・醜聞・スキャンダルの類に(直接的には無関係なはずの)人々が過剰なまでに反応して大騒ぎするのも、ルサンチマンの感情が根底にあるためと考えれば腑に落ちる。自分より恵まれている有名人に対する嫉妬心、憎悪、復讐心。これが自分と同じ境遇の、自分と同じルサンチマンを抱いた人々と、ひそかに一致団結した場合、大きな炎上騒ぎとなることも少なくない。
こうした感情の機微を、ニーチェは人間の本質であるとし、批判せずむしろ肯定的にとらえている。
確かに、『社会とは、人とは、こんなものだ』と捉えておくと気は楽だ。おそらく自分もその中の一人でしかないと。しかし、福祉従事者としては絶望感に苛まれる。
社会的弱者を支援しているが、支援者であっても、弱者側であっても、無自覚に人を差別してしまうところを多く見てきた。
それは“快”“不快”がキーとなっていると感じる。
そしてそれは、所謂、人間の“動物的本能”であり、変えることはおそらく出来ない。
ならば否定してはいけないのだ。
だけど誰だって“不快”側にいたくないはずだ。
そんな自分を棚に上げて他者を否定しているのが人なのである。
そんなことを個人でどうこう出来る訳が無い。だから法で一線を引く必要がある。
恣意的な私刑が行き過ぎる社会は、別の支配者が台頭する不自由この上ない世界ではないかと考える。
それだって誰も望んではいないはず。
だから、先ずは『差別者である自覚』が必要なのだと思う。
自分が所属するコミュニティ(社会)を守るためにも差別は起こるのだと。
元々、自然にあったものに恣意的な価値付けをし、“不快”を隔離し見えないようにしてきたという人類の歴史を鑑みて、この時代の潮流の是非を見極めていくのが良いのだと思う。