YOLO日記

2021.04.30

伊是名さんの

 

JRバリアフリー問題

それについてsnsではなかなかの荒れっぷりでした。個人的に思うことを書きます。

 

障害者の歴史では

親の危篤の知らせに急いで国鉄(当時)に乗車しようとしたが、事前連絡なしには乗せてはくれず、結局、死に目にに会えなかった。

という話があります。こういうエピソードには『人とは何か』と考えずには居れません。我々健常者なら問題無く乗車出来るのですから。

他にも『川崎バス闘争』や『立川駅エレベーター設置運動』等々。そんな数多ある人柱エピソードなど知る人ぞ知る話。

最近では『バニラエア問題』が記憶に新しい所。

 

色んな人の意見を見て先ず思うこと。『障害者の権利は全然社会に、人々に、浸透していない』ということ。

むしろ自分達健常者と同等の存在だなんて思ってもいないのだろうなと。社会の求める価値観や、差異が大きい事、また付き合い慣れていない事もあるからか、別世界の存在という壁を見ました。

『権利(法律)以前にルールを守れ!』か。まさに個人モデルだ。

では障害者側からはというと、実は積年の恨みの爆発というニュアンスもあります。

たまたま障害を持って生まれただけで、または障害を負ってしまっただけで、排除されてしまう現実に対して。

いつまで経っても謙る日常を押し付けられる人生に対する悲しみ。所謂本音です。

 

声を上げること。とっても大事なこと。それがあったから今の障害者達の生活がある。同等を目指すなら、これからも声は上げ続けないければなりません。マイノリティの宿命です。

今回、その手法について色んな意見があるようです。

ただ一つ言えること。声の大きい人は健常者・障害者問わず存在します。たまたま声の大きな障害者だっただけで、その他障害者と一括りは危険です。運動はその大きな声に引っ張られて来た側面はありますが、虐げられてきた歴史を踏まえると、そこまで出来る障害者はけして多くは無いのです。

尊厳を保つために逆に健常者(マジョリティ)は全て敵だという考えも生まれます。それは愛される障害者になれへのアンチテーゼ。自分の人生を生きる為には、なりふり構ってはいられないのです。

反感を買ってしまった部分が多いのですが、なぜそんなに激しいの?と、そういう部分を知るキッカケとして、多くの人の目に止まったことは良いことです。ぜひ考察の契機に。青い芝の会を参照

 

今回は、そう言った氏の特性(勢い)と背景。また家族と友達でのプライベート旅行だという条件により、多くの人からワガママだというレッテルが貼られました。

しかし、有事の際にも同じような社会からの対応では余りにも残念で目も当てられません。

この問題が同じ地平で語れる日が来ることを切に望みます。(声を上げたなら反論は当然あります。対立意見が止揚するまで止まってはいけません)

 

我々【CP者】が発言する場合考えなければならないことは、親兄弟から別れ一人ぼっちになった自分を想定した時、あるいは夕暮れの雑踏の中に放り出された自分(今の障害のままの)を発見した時、いかにさげびいかに行動すべきか…”

 全ての行為が罪の積み重ねであり、差別を伴うものであるとしても、なおかつ人は(私は)…”

 

横塚晃一がそう説いたのが40年ほど前。そして現場はやっぱり人対人。ましてや経済社会に割って入るには、法整備はもちろんですが、どこまで行っても人情抜きには難しいようです。

誰よりも人と関わって、人を遣って生きて行かねばならない立場上、社会生活技術として上手く言葉を紡ぐことはではないと思います。機械化が進むまでは。(ここ怒らないで!)

マイノリティにとって当たり前の社会の到来は非常に困難。

まだまだ詰められるスキマは有りますが、役割や立場を越えて手を取り合って、なんとか局面を越えていける社会も悪くは無いはず。それは法律(縛り)を越える瞬間も

 

実際、現場の駅員さん達は相当面食らったことでしょう。そこは労わりつつ、障害者と言えどもその時に絶対利用したい/しなければならない事情同じ人としてあると理解して欲しいのです。

障害者であっても人生は一度きり。ワガママに映ってもその人の譲れない価値観。可能な限り対応をお願いします。我々も同様に、一人ひとりに寄り添うように支援していかなければ。引き続き、社会は無理なく対応出来る工夫を考えて行かねばなりません。

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