YOLO日記
2021.09.18
お気持ちだけでは…
そろそろ車検と言うことで、車屋さんからいろんな車を紹介される。
時間とって説明聞きに行くんだけど、新車なんて買う予定は無い。
んだけど、試乗をめっちゃ勧めてくるもんだから仕方なく乗るw
だって断ったら車屋さん悲しい顔するんだもん…
今乗ってるやつは、周りから散々『使えない』と非難されるツーシーター。
まだまだ乗りたいし、乗り換えるなら新型も浮かぶけど、今回は大人の選択をする予定。
だってこないだの大雪もトラウマなのだよ…
つーか、車めっちゃ高くなった!20年で2倍やないか!!
庶民の収入は増えないのに物価は上がってかなわんよな〜
まー、それが適正価格って言うなら仕方ないなぁ〜とも。
そうそう、福祉の報酬も適正価格にしてくれんかね?
この報酬で基本的人権(生存権)の擁護を担わせるってお上は何考えてるんだ!?って思う。
人材の替が効かないって時点で破綻している制度設計よね。
パーソナルアシスタンスが理想なのに選べもしない、それ以前に抜けたら埋められないってのが現実やもんな〜
自分らが被介護者の立場になった時に思い知るのかな。
いや〜権力者は自由気ままに出来るってか。
だから悲しいかな『贅沢言っちゃいけない』というニュアンスでお伝えしなければならない事もあるのです。
みんな精一杯やっておりますし。
いや、分かってるよ、パートナーは選べる方が良いって。。
価値観違い過ぎるパートナーじゃ苦しいんだって。。。
分かってはいるのよ。。。
理想と現実。
そう、社会は建前で出来ているもんなんだって。大人とは建前の中で生きるものなんだろうね。
そんな建前の中でもがいていく。きっと誰もが同じ。ワタシもアタナも…
2021.09.07
お財布の中身
ふとした時に財布の中身を整頓するのですが、整頓するたびに捨てるレシート。
ポイントの確認とかでもらうときもあれば、「どうぞ」といわれついついもらうときも。
結局捨てるならもらわなければいいじゃん!といつも思うのにやっぱりもらってしまう。
こんないたちごっこを財布を見るたびに思います。
そんな不要なレシート。以外に使い道があって、爪磨きに使えるとのこと。
印字されている側で爪の表面を磨くと「あら、ピカピカ」に。
理由として、印字されている面にすごく細かいデコボコがついていて、爪に押し当てて磨くことで爪が削られてピカピカになるんです。
日常の小さな知恵。ぜひ、お試しあれ♪
2021.09.03
秋の気配
気温が下がり、段々と涼しくなってきましたね☆
夕方も暗くなる時間が早くなってきたような…夜も涼しく、過ごしやすくなってきたような。
秋です、個人的に一番好きな季節😊
夜風が気持ち良く、心地よい。少し肌寒い空気が好き。
食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、実りの秋・・・など、“〇〇の秋”というのをよく耳にしますね☆
過ごし方は人それぞれ、今年はどんな秋を過ごそうか…♪
そんな季節が変わっていく中で、我が家の夏の名残が。
自宅のベランダにいる、セミ。
事務所でも話していたのですが、ずっっっと家のベランダにセミがいらっしゃるのです💧
セミの寿命は地上に出てから一週間ほど…と言われていますが、一週間以上ベランダにいるんですよ…あの子(笑)
鳴くわけでもなく、ひっくり返ることもなく、ただただ、じー・・・っと佇んでいます。💦
気になって調べてみたら、セミの寿命は一週間とは限らないそうで(!)
天敵に襲われたりしなければ一週間以上生きられるそうです。また、捕まえても飼育が難しく、長く生きられないとの事…だから寿命が短いと思われていたそうな。(※諸説あり)
なるほど。知らなかった、だからずっとベランダにいるのね~あの子😲
夏になると当たり前に現れるセミの事を少しだけ知れたような気がする、そんな夏の終わり。笑
自分の中で“当たり前”に思っていたことも、調べてみると違っていたり、色んな説が出てきたり。
今回はセミの話でしたが(笑)
自分の知らない物事はそれこそ当たり前にたくさんあって、興味を持つこと・新たに知ることは楽しいと思います☻(それとなくまとまった?)
秋は短く、すぐに冬がやってくる。日々、学びを忘れず過ごしていきたいものですね☆
2021.08.28
二歳になりました♪
お陰様で!!!
今日はYOLO・FUKUIの誕生日!🎊
この二年間で感じたこと…
今まで知り得なかった広い世界がまだまだあるということ。
小さな事業所だからこそ、それを仲間と共有できている。
訪問系サービス、YOLOが提供しているもの主に二つ(三つ)
1:居宅介護(身体介護、家事援助)
2:重度訪問介護
3:移動支援
さらにその中での気づき。
精神、発達障害ある方の家事援助ニーズが高いこと。
掃除、調理…「家のこと」と言われていること全般、
やりたくないからやらない…ではない、やりたくてもできない。
相談があった時点で家事全般が全く行き届いていない状態にあったりする。
例えば、多くのゴミが捨てられずに溜まっている状態、粗大ゴミがある状態、引越したは良いけれど荷解きできないままの状態、日頃手をつけないような場所の掃除(俗に言う大掃除)…。
その場合、日常の家事の一片しか担えない家事援助のサービス枠ではなかなかもどかしいものがある。
じゃ、誰がやる?
…誰かがサポートしなければ。
「重度訪問介護サービス」というもの自体もまだまだ知られていない。
その名の通り、重度の障害者が地域で生活をするためのサービス。
支援内容は、身体のこと、家事のこと、外出の他、“見守り”という概念もある。
そもそもこのサービスを担う事業所が少ない。
=重度訪問介護サービスを利用するに該当する方でも、
居宅介護サービスを利用する…という流れに。
ニーズに適したサービスが提供できなければ、結局は生活=“我慢”…。
生きる(活きる)ことを我慢することと、欲を我慢することは違うと思う。
移動支援は、外出のサポートである。
障害児、者ともに、これもニーズが高い。
そもそも身体的にひとりでの外出が困難だから、+そこにご本人の経験値を高めること、家族のレスパイト等、
目的は個々様々であるが、ニーズが高いという実状自体把握されているのか疑問。
それらのニーズに応えていこうとすればするほど、トリアージしていくことが忍びない。
特に1対1のこのサービス、
人材にも限りがあってなんとかならないものかと思案の日々。
いち事業所の努力では限界。
そしてそして、
社会の縮図的なものにも多々遭遇。
“医療的ケアの壁”
“強度行動障害”
“8050問題”
“親亡き後”
“ひきこもり”
“依存症”…
そんなキーワードも耳にしたことはあり、
さらっと関わってしまってきていた課題に再度直面しているのは、
今の自分達だからこそ直面しているとポジティブに解釈。
まだまだ考えなければならないことがたくさん。
まだまだやらねばなことがたくさん。
まだまだこれから✧
三年目のYOLOもどうぞヨロしくお願いいたします(●´ω`●)

2021.08.16
炎上?
ソーシャルメディア界隈では騒動がない日は無い。
リアルタイムで情報が入ってくる現代では、それについて民衆が議論する機会も多い。
それはそれで良いことではあるが…
ポリティカル•コレクトネス
→ 人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。
キャンセルカルチャー
→ 個人や組織、思想などのある一側面や一要素だけを取り上げて問題視し、その存在すべてを否定するかのように非難すること。文化的なボイコットの一つ。
ルサンチマン
→ 社会的な弱者・被支配者が抱く、強者・支配者に対する怒りや憎悪、嫉妬などの感情である。ニーチェはルサンチマンを「弱者側の道徳感」と捉えた。弱者は強者に対する憤りを行動に移せない。そのため弱者は、想像の中で復讐心を膨らませて心を慰めるのだいう。
人は失敗するものであり当然失言もある。そのことは誰もが身に覚えがあるはず。
・あるコミュニティで問題無く通っていたことが、別のコミュニティで問題になること
・その世代での共通観念というものもあり、今更変えられない(変えることが難しい)考え方
・そして、思っているのはまだしも、言葉(行動)に出してしまうことはNGだ
とかがある。
他にもあるだろうが、これらは本人だけの問題だといえるのだろうか?
そして一回の失敗で社会的に抹殺される正当性とは?
現代のネット社会は、それらに対して“正義”を振りかざし、完膚なく叩き潰す力が働きやすい。
ソーシャルメディアでは民衆は扇動されやすく、ルサンチマン的な流れに乗せられやすい。
そんな見せしめで今日も消えていく者たち。
そもそも、それって本気で問題だと思って乗っているのか?が疑問。
差別反対!とは声高に叫ぶけど、その権利の陰で取り残されていたり、割り食っている人々のことまで考えられているのか。
ダブルスタンダードな意見も多く目につくのは、やはりルサンチマン的なガス抜き勢が多いという証拠?
そんなものであっても多数派に入っていたいのだろうか。だって社会は何も変わっちゃいないぜ?
ルサンチマン(2)
→ 例えば、有名人のゴシップ・醜聞・スキャンダルの類に(直接的には無関係なはずの)人々が過剰なまでに反応して大騒ぎするのも、ルサンチマンの感情が根底にあるためと考えれば腑に落ちる。自分より恵まれている有名人に対する嫉妬心、憎悪、復讐心。これが自分と同じ境遇の、自分と同じルサンチマンを抱いた人々と、ひそかに一致団結した場合、大きな炎上騒ぎとなることも少なくない。
こうした感情の機微を、ニーチェは人間の本質であるとし、批判せずむしろ肯定的にとらえている。
確かに、『社会とは、人とは、こんなものだ』と捉えておくと気は楽だ。おそらく自分もその中の一人でしかないと。しかし、福祉従事者としては絶望感に苛まれる。
社会的弱者を支援しているが、支援者であっても、弱者側であっても、無自覚に人を差別してしまうところを多く見てきた。
それは“快”“不快”がキーとなっていると感じる。
そしてそれは、所謂、人間の“動物的本能”であり、変えることはおそらく出来ない。
ならば否定してはいけないのだ。
だけど誰だって“不快”側にいたくないはずだ。
そんな自分を棚に上げて他者を否定しているのが人なのである。
そんなことを個人でどうこう出来る訳が無い。だから法で一線を引く必要がある。
恣意的な私刑が行き過ぎる社会は、別の支配者が台頭する不自由この上ない世界ではないかと考える。
それだって誰も望んではいないはず。
だから、先ずは『差別者である自覚』が必要なのだと思う。
自分が所属するコミュニティ(社会)を守るためにも差別は起こるのだと。
元々、自然にあったものに恣意的な価値付けをし、“不快”を隔離し見えないようにしてきたという人類の歴史を鑑みて、この時代の潮流の是非を見極めていくのが良いのだと思う。
