YOLO日記
2020.08.07
自殺2
やっぱり安楽死論争で気になることは『障害を負ったら、弱者になったら終わりだね』観だ。
『生きる権利と死ぬ権利。それ無理矢理同列で語る必要性なんて無い』だなんて言ってるけど、上記の優生思想が前面に出ているのが危険と思う。確かに、障害を負ってからの人生は、未だ多難なのは認める。それは社会モデルとしても、当たり前に生きる権利の保障と、我々の障害者に対する理解がまだまだ十分とは言えないからなのに。
※優生思想… 優秀な人間だけで社会を創造する事で、理想的な社会になるという考え。または、優秀な人間以外は認めないという考え。これは、少しでも劣る人間を排除していく思想となりやすい。
➡︎多くの人はこれを肌感覚で感じていて、焦燥感や虚無感を感じている。また、それに対して、多く人が自己のポジションを守ろうという本能で、多くの弱者を否定している。だからこそ、弱者となってしまった時に”生きれない”と考える。これが“生き難い社会”の正体。
※社会モデル… 障害は社会にあるという捉え方。現代社会は、障害者(弱者)を無視して出来上がったからこそ、生き難い。だったら、障害者たちの意見を取り入れて、もっと人間が生きやすい社会(ハード面もソフト面も)に創り直そうという考え方。合理的配慮。
➡︎“社会”とは人間が生きやすくなるためにあるべきではないか。
産まれながらの重度障害者がいる。今までずっと人の手を借りて生きている。皆が言う“生産性”なんて無い。むしろ、その生のために介助者たちの生産性をも奪っているとも言える。だけど、その考えは『障害者は価値が無い』という資本主義的価値観での話。
社会は障害者が産まれた事すら否定する。じゃあ、本人はどう思っているのか?
「自分はたまたま障害を持って産まれただけだ」
「選びようもなかったし、誰かを恨んでも仕方ない」
「ただそれだけのことで周りから問題視されている」
「ましてや殺されるなんてまっぴらごめんだ」
「オレ、なんか悪いことでもしたのか?」ってね。
我が物顔の健常者も、結局は、“たまたま健常者として産まれただけ”ということに気付かないと、今後の人生もより綱渡り的で辛いよね。そんな“たまたま”なんかでその後の人生が大きく規定されてたまるかって。今までそう言って来たのが障害者たちだということ。そこから社会を疑ってみたらいい。
生まれながらの重度障害者が、地域で当たり前に生きているって事を『矛盾』としないような社会風土が今こそ必要。その為には、一般的な生産性のみで価値を決めるでなく、老若男女の誰もにとっても生きていける希望的存在として、また、人が生きるための“生産性の土台”として感じていけたら素晴らしいよね。
でもまぁ、自死を選ぶなんて人間らしいとも言えなくはない。想像力豊かな事が“生きる”の価値観を良くも悪くも規定するんだから、その想像力でもっと“生きやすい”未来を創造したいものだよね。
元来“死”は誰にだってネガティブなことなはず。先ずは、それを肯定するような風潮に飲み込まれているって自覚が必要なのだと思う。
2020.08.04
自殺
『ALS』
発症から、日増しに落ちていくADL・QOL、そして気力。人に世話をされ、ただ人に生かされているだけの日々。いっそ思考も衰退していくのならば…
などということは想像に難くない。
当たり前に出来ていたことが出来なくなっていくという絶望感。『この様な状態では生きていく価値も無く… 』と。
『優生思想』
我々に深く刷り込まれた価値観である。
働けなくなったら終わりだよね。
若者の未来を救うために姥捨山が必要だよね。
社会(既得権益)を維持するために、和を乱す存在は排除して当然だとだよね、等々。
だから『生恥を晒すくらいなら… 』って。
『尊厳のある死?』
“死にたいって思いは生きたい思いの裏返し”
自身の今までの経歴と、世間一般の価値観に飲み込まれた結果『死にたい』と思ったのだろうか。いや、むしろ『生きてちゃいけない』と考えたのでは。
ニュースのコメント欄を見ていると危うさを感じる。
『そうなったら自分もそう思うよね』
『自殺は認めてあげないと』
『死なせてあげなよ』って言う人達。
誰かから言わされていないか?
そんな同調圧力が嫌いなんだろ?
何故、上から目線でモノを言うのか?
自分自身にどれほどの価値が有るっていうのか?
そうでは無くても
『職を失った』
『付き合ってた人にフラれた』
『人間関係が上手くいかなくて』
と自殺を選ぶような時代だ。
希死念慮
誰もが衝動的に『死』を選んでしまうこの時代に対する違和感。そして、それを否定することが出来ないほど崖っぷちにいる錯覚。それほど歪なこの社会。
…本当は逆の『生きてさえいれば何度でもやり直せる!』と心から思える社会を求めてはいないか?
ならば、どんなカタチであっても、今を生きる者たち全ての“生”を肯定しなければ矛盾ではないか。尊厳は生きているその人の中に絶対ある。
『生き方は無数に有る』
また別のQOLを追求したらいい。
実際、多くの重度障害者もALS患者も、そうやって“別のカタチ(価値観)”で暮らしている事実があるのだから。
先ずはそれを知って欲しい。否定しないで欲しい。
もっともっと生を肯定していく流れを作らなければならないと思った。
『人生には良い時も悪い時もあって… 』
『どんな人間にも生きがいは必要。何だっていい』
記憶の片隅にあるALSおじさんの言葉。
“尊厳のある生”それに添うだけ。
『白と黒だけの世界』
当事者の本当の決定を尊重する為にも、社会をもっとカラフルに捉えられるようにしたらいい。
もっと生き方(価値観)は多様であるということを知ったらいい。今は飢死する時代ではない。生きていける時代である。そこに罪悪感は感じる必要は、無い。
本当は生きて(活きて)いたいのだろうから。
※結局、最終的には個人の問題になるのかもしれないが、もし自分や、または関わっている方がそうであったらと思い書いてみた。
また、福祉との関わりの薄い方達に向けても。
2020.07.29
素直がいちばん
文章を書くのは自分と向き合うこと!ということで、今週も向き合ってみます(^^)
どこかで聞いたことが在ります。
「外見は内面の一番外側」
「『言葉』は自分の感情に似合う服を着せたもの」
それを聞いて、
着飾るのでは無く、身だしなみに気をつけねばと思い、言葉を使う時も、今の言葉は本当にこの気持ちに当てはまっているか?と考え、丁寧に言葉を使いたいなと思っています。(どちらも自分なりに、ですが・・・失敗ばかり・・・(><))
思うのは、選ぶことの難しさ。
結局、自分なりにしか選ぶことなんてできないのはその通りなのですが、選ぶときに色々考えてしまいます。
見る人、聞く人は、どう思うだろう。
そう思って、無い正解を求めて、本末転倒、自分の気持ちに似合わないもの(言葉)選びになってしまったり・・・
でもやはり素直がいちばん。
周りがどう思うかも大事ですが
いちばん大事なのは、自分はどうしたいか。
なかなか実行は難しいですが、
素直にいたいと思います。
2020.07.21
教育と・・・子育て?
少しずつ第2波が迫って来ている日々ですが・・・。
引き続き密に気を付けていきたいと思う日々です。
そんな中、先日保護者懇談に行ってきました。
コロナの影響もあり、先生との面談もついたて越し(犯罪者ってこんな感じなのかなと思いました)で会話をしていました。
また、先生との面談も自身が行くのは初めてでした。
主に話をする内容としては・・・
学校での過ごし方
勉強の得意不得意
家での状況
などなど・・・。
大体話をするのは決まっていて。
先生たちも悩まれているみたいでして。
保護者に言いづらいことを伝えるということが過度なストレスなんだろうと感じました。
こちら側から子供たちの課題を指摘するとわかっていただけているという感触が伝わっているということで話がすらすらと。
結局、一人10分といっていたところを2人合わせて1時間もしゃべって帰ってきました。(ほかの保護者の方ごめんなさい)
ところで・・・
そもそも教育って何なんでしょうか?
誰のための教育なんでしょうか?
教育基本法
前文
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
とあります。
国の未来を切り拓く教育の基本というものの中で教育基本法が作られており、第1条にはこう書いてあります。
第1条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
とあります。
また、教育の目標としては
第2条
- 第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
- 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
- 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
- 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
- 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
- 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
- とあります。
要は国家・社会に対して必要な人材を育成し教育するための法律だということです。
では、この教育から外れる人たちには教育は必要ないのでしょうか?
結論からすると必要。ですが、教育をしなくていいと昔は言われていました。
実際に1979年までは養護学校(現特別支援学校)というものは存在しておらず、障害児などは学校教育法18条の規定により就学することを免除もしくは猶予されていました。
学校で学べない。じゃあどこで誰が代わりに教育をしたのか?
1979年までは重度障害者は親が先生の代わりをして我が子に教えていたのです。
また、施設などにいた子供たちは職員が先生になり教育をしていました。
学校という場所がないところでも様々な角度から教育というものは行われており、ニーズはそこにありました。
障害福祉の父といわれる糸賀一雄は発達の保障というものを訴え近江学園を作り発達教育を独自で行う一方、国は免除という形で障害者への教育というものから目を背けていたのかもしれません。
現在共生教育を進めていく一方、障害を持った子供がクラスにいることで授業が進まない、集中できないなどの声により教育の幅がせまい状態があります。
学力も大切ですが、一人ひとりの社会力をつけていくことこそが教育基本法の前文にあった「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」につながるのではないのでしょうか?
そのためにも集団と個別のバランスを改めて見直す必要があると思います。
コロナの影響で教育が変化している今、社会力にも目を向けた新たな教育を学校・地域が共有して作り上げていきたいものです。
2020.07.16
振り返り大事
そう言えば…
以前のブログで、「続きは次回~」 みたいなこと言ってたなと(^^♪
「…でも、原点回帰するためには、
自然と自らが知ること、知ろうとすることが大事で。
で、この「知ること」ってのが、人間が成長するためには………ってのはまた次回★」 (6月17日)
って(笑)
で、有言実行せねばということでその続き。
人間が成長するためには段階があって、
第一段階【無意識 無能】 =知らないし、できない(分からない)
第二段階【有意識 無能】 =分かってるけどできない
第三段階【有意識 有能】 =意識していればできる
第四段階【無意識 有能】 =意識していなくてもできてる
これに関して書くにも考え方によってはパッと二通りあるけど、
『障害』というテーマで考えたらまた壮大。
健常者と呼ばれる人が第四段階なことも、障害ある人は第二段階か第四段階、
だからサポートが必要だよねという考え。
今回は、人間が成長していくためには~って話ですので、
もうひとつの『個人』というテーマで、
何かを習得していくためにはステップがあるということ。
最初は誰しも無。
「初めてだからできな~い」のは当たり前。
当たり前を恐れるなかれ。
試行錯誤や失敗=成長である。
(かのアインシュタインも「失敗は成功と同じくらい貴重で、積極的にしていきたい」って言ってる。)
余談で、
とある出来事であっても、考え方であっても然り。
そういうことがあったんだということや人の考え方を知り、
疑問が浮かび、それをひとつひとつ払拭して、
やっとストンと落ちる。
(そこまでしないのはそこまで興味がないんだと思う(笑))
あとは、対人支援に関わっていたら特に、一方の話だけ鵜呑みにしてはいけない。
これ鉄板。
あちらこちら脱線したけど、
やっぱり失敗した分だけ、人生の厚みになる。
分厚い人生を送ろう(笑)
今日はここまで(´ω`*)