YOLO日記

2021.05.28

四角い窓?

 なんか寒暖差で体調不良が続きます。今年40歳になるからな〜。自分なりに長生きしているなって思いますけど(笑)

 

今年、数年中断していたトレーニングをH氏の影響で再開しました。

とりあえずは、失ったお肉を取り戻すために増量中。

すると、久しぶりに会った人から驚かれます。短期間で体型が変わるから?

先日もお医者さんにビックリされました〜 

血液値も『これフルマラソンしないと出ないよ??』ってw なかなか理解されない趣味ですよね。

 

んま、そんなことして少しでも体力保持と体調管理をと思っているのですが、やり過ぎて体調崩してしまいがちなのが悪い癖で。

やっぱり40代は満身創痍なのかしら。。。

 

さてさて、前回の続きを少しだけ。

伊是名さんやその先達が、どう人々から社会から隔たられ暮らして来たのか。

 

『四角い窓』

 

 ぼくは空の広さを知らない

 空はしょっ中黒い木のわくにおさまった  

 四角いもの

 その四角い空を

 ある時は雲がけだるく流れ

 ある時は鳥が対角に飛び去る

 又時にはまだシャボンのにおいのしそうな

 色とりどりの洗濯物が

 四角い空の大部分を占める

 その四角い空が

 薄くかすめば春が来たと喜び

 深く清めば秋が来たと悲しむ

 そんなぼくを人々は片輪者と呼ぶのだ 

 

映画『さようならCP』の主役の一人、横田弘氏の詩です。

そんな時分から奮起して、後に青い芝の会で社会運動を始めます。

その中で健全者(健常者)と共闘共生しながらもこういう詩も詠っています。

 

『花がたみ』

 

白い霧

あなたは生きることを強いる

面影のすべてを埋めて生きることを強いる

凌辱に曝されたまま生きることを強いる

冷たく白い霧

わたしはこころを ひらかない

だから

だから今朝もあなたに

むらさきいろの 花を摘む

  わたしは あなたを許さない

 

重度障害者と健全者との関係性の常です。

細かい解説はしませんが、『何故人は、生まれながらの差異に対して、こうも残酷なんだろう』と考えてしまいます。たった一度の生を否定してしまうこと。これも自己責任なのだろうか。

それが宇宙のなのか

それとも「違う!価値観でしかない」と言えるのだろうか

 

『障害者であることを自覚せよ』

 

先ずはそこから始まると。社会の中での自分(障害者)の位置。

それは絶望からのスタートなのだと。

 

『本来あってはならない存在』

『否定される命』

 

その上でどう生きるのかを実践していく。

健常者に対して突き付けていく。

健常者の心を揺さぶることで、自己主張を通していくということ。

 

「障害者は健常者との闘争の中にしか生きられない」

 

伊是名さんの件は、そんなことを示しているような気がします。

どっちが上(下)というせめぎ合いではなく、平等対等の関係性は未だ夢幻の如く。。。

共に生きていくには、そう実践していく他無いのだという現実なのかな。どうしても人はすれ違ってしまうのだと。

 

そんな深淵を覗いてみたい!って方は

ぜひぜひ障害福祉(YOLOにおいでよっと締めておきますかね(笑)

2021.05.18

たまには・・・

 タイトルの通りたまにはにちなんだことを書いてみようかと。

最近のたまにはでいうと、・・・・映画が見たい!

自分の時間が全くと言ってなく。

自分のことで一日が終わることがありません。

だからこそ映画が見たい!

ちなみに今見たい映画でいうと、シン・エヴァンゲリヲン。

テレビ版が始まって25年たち、ようやく終わりました。

テレビ版が始まったときはちょうど高校生で、リアルタイムではなく、夏休み特番で平日の午前10時半から11時で39チャン(福井テレビ)で放送してました。

あの当時見た感想はと言うと・・・「他人は所詮自分の心の中なんてわからないし理解できないんだ。」と思ったのを覚えています。

すごく深く、この感情って自分が体験しないと、この脚本やシナリオはかけないと思って当時見ていました。

(今思うと私、どんな少年時代を過ごしてるんだ?)

その後、映画が出来て今でいう「旧劇場版」と言われるのを見に行った時に思った感想が

「あー。人類が補完され、みんないなくなった。そして、アダム(碇シンジ)とイブ(アスカ)のように知恵の実を得た2人の世界をもう一度作ることがその人にとっての生きる場所の創造ということなんだ」と感じました。

色んな状況(セカンドインパクトやサードインパクト)に追い込まれ、その中で社会(エヴァに乗る)に合わせて生きてきた結果、「自分の価値なんて自分にしかわからない。」他者に認められたところで、それは一過性のものでそれを批判する人がいたり、一つの失敗などで認めたことをなかったことにしてダメな人間としてみたり。

だからこそ人類補完計画を発動させて他者と自分の一体化することが最大限で自分を認める唯一の方法になったんだと思っていました。

また、私個人としては旧劇場版ってすごく納得のいく終わり方でした。良くも悪くも天地創造の根底はこうなのかもと思ったりもしました。

※あくまで個人の見解です!「この解釈は違う!」と批判せず、「理解」を求めることが大切だと思います!

まー、一般的には「すごく理解できない!あんな終わり方では誰も救われない!」なんて言われていて、庵野さんは悩まれた(どうやったら庵野秀明を殺すかなどのスレッドがあったみたいです。)結果、「エヴァンゲリヲン・序・波・Q」を作り、紆余曲折しての「シン・エヴァンゲリヲン」。再構築された集大成。まだ見れてませんが、どんなものなのか楽しみです。(これにさらに批判が出てはいますが・・・なんでなん?)

けど、生活している中で長時間の映画を見るハードルは高く・・・。あー自分の時間を作るのって大変!

あ、最後にもう一つ。

視点を変えてアニメ「エヴァンゲリオン」を独自で読み解いてみたいと思います。

全体を通して主人公の碇シンジを見てみると、些細な事を大きくとらえ、常にできない。逃げちゃだめだ。なんて言っています。

支援や社会、生活や仕事の中で「なんだ、そんなこともできないの?」とか「これくらいできるでしょう?」なんて思う場面があるかと思います。福祉支援の現場でも支援員や相談員さんが利用者さんに向かって何気なく言っています。(悪気はないんだと思います。)

けど、本人にとっては不安や恐怖を抱えて命がけでやっていることや、人の何倍も努力しないとできないこと、結果できなっかったことだったりします。

それを否定されたり、批判されたときにはどうでしょう?過去のブログでも書いたかと思いますが、自分を認めるという自尊心や成功体験が育っていくとは思いません

現に摂食障害の方が過食・拒食になるキッカケは何気ない周りからの声だったりします。

私がかかわった女性の利用者さんは「太ももががっちりしてるね?運動部に入ってた?」なんていう何気ない会話がキッカケで拒食になられておりました。(じゃあ何を会話すればいいの?なんて思ったりもするかと思いますが・・・)

話はそれましたが、自分のできること、できないこと、それを他人の物差しで測ればできない人になってしまうし、社会では当たり前のように起きている。まさに弱肉強食の世界です。

けども、自分の物差しで自分の最大限を生かすことで人というものが生きていけるのであればそれでいいのではないのか?

こんな視点でテレビ版のエヴァンゲリオンをみると意外に「庵野秀明」が感じた当時の思い、生きづらさ、生きるという部分を見ることが出来るかもしれません。

好きなことをして生きるためには命を削ってでも作品を作る。命よりも作品が上と公言されていました。

また、庵野さんを取り巻くスタッフも同じように「命を削ってでも作ります」と言っておられ、テレビの中のインタビューで「なぜ、庵野さんと仕事をするんですか?」という質問に対して「好きなことをさせてもらって仕事をしているから」と言われてました。

それって最大の生きるということへの究極の答えなのかなと思います。

生きることにもう一度目を向けてみませんか?

2021.05.13

夏日です

いよいよ暑くなって参りました、半袖の季節です!早い

ぽかぽか陽気から、すっかり夏日に。

移動支援で外を歩くとちょっと汗ばむ、いや、普通に汗をかく(笑)

皆さま衣替えはお済みでしょうか??私はまだです、、、次のお休みの日にちまちまやり始めねば。

夏に向け、日焼け対策の準備もしないと、、、!!すでに腕は焼け始めております、腕時計の跡が…(・ω・`;)

このまま油断していると真っ黒になってしまいますね;

気付けば5月も半ばに差し掛かり。毎日早いな~ほんとに。

最近は動画を観たり、好きな音楽を聴きながら空き時間を過ごしております。

好きな物に触れる時間は自分にとっての癒しで、自分の世界に入られる時間。

この時間が無くなると、もやもやしたり~しんどくなったり、、、すぐに影響が出てしまう;;

ので!自分の時間はとても大事!!一人の時間も時には必要(私には)。

“楽しい”と思えることを増やして、自分の機嫌を自分で取っていきたいものですね。これが難しかったりもするけども…

自分なりの解消法で、ため込み過ぎずに過ごしていきたいものです。

季節の変わり目、体調を崩しやすい時期でもありますゆえ、しっかりと整えて!(いつもこれ言っている気がする笑)

心と身体の健康を大切に。今週もあと少し、頑張っていきましょう♪

2021.05.07

自問自答

 現場実習の場に身を置いて、早一か月を迎えようとしています。

いやぁ~…なんと狭い世界で生きていることか。

それは前職から今の事業所を立ち上げてからも感じていたことですが、

さらに広い!!

 

障害者にとっての“働く”、“生活する(生きる、活きる)”

誰かが誰かの人生を考えるということ、

連携、

孤独、

ひきこもり、

依存症、

高齢障害者、

精神障害、難病、

支援者とは、理想のソーシャルワーカー像…ナドナド

 

新しいキーワード、今まで素通りしてきたキーワード、

いろんなキーワードが頭を巡っていて整理しきれていません。

グ~ルグル グ~ルグル…((+_+))

(最終の実習報告書けるかなぁ…(;´Д`))

 

実際、密度の差はあれど一気に何十人の方と接し、何十通りの生きざまがあり、何十通りの生きづらさがあります。

 

実習も折り返し地点です。

この実習が自身の今後にどう影響するのか…

自問自答しながら過ごしている今日この頃です。

 

2021.04.30

伊是名さんの

 

JRバリアフリー問題

それについてsnsではなかなかの荒れっぷりでした。個人的に思うことを書きます。

 

障害者の歴史では

親の危篤の知らせに急いで国鉄(当時)に乗車しようとしたが、事前連絡なしには乗せてはくれず、結局、死に目にに会えなかった。

という話があります。こういうエピソードには『人とは何か』と考えずには居れません。我々健常者なら問題無く乗車出来るのですから。

他にも『川崎バス闘争』や『立川駅エレベーター設置運動』等々。そんな数多ある人柱エピソードなど知る人ぞ知る話。

最近では『バニラエア問題』が記憶に新しい所。

 

色んな人の意見を見て先ず思うこと。『障害者の権利は全然社会に、人々に、浸透していない』ということ。

むしろ自分達健常者と同等の存在だなんて思ってもいないのだろうなと。社会の求める価値観や、差異が大きい事、また付き合い慣れていない事もあるからか、別世界の存在という壁を見ました。

『権利(法律)以前にルールを守れ!』か。まさに個人モデルだ。

では障害者側からはというと、実は積年の恨みの爆発というニュアンスもあります。

たまたま障害を持って生まれただけで、または障害を負ってしまっただけで、排除されてしまう現実に対して。

いつまで経っても謙る日常を押し付けられる人生に対する悲しみ。所謂本音です。

 

声を上げること。とっても大事なこと。それがあったから今の障害者達の生活がある。同等を目指すなら、これからも声は上げ続けないければなりません。マイノリティの宿命です。

今回、その手法について色んな意見があるようです。

ただ一つ言えること。声の大きい人は健常者・障害者問わず存在します。たまたま声の大きな障害者だっただけで、その他障害者と一括りは危険です。運動はその大きな声に引っ張られて来た側面はありますが、虐げられてきた歴史を踏まえると、そこまで出来る障害者はけして多くは無いのです。

尊厳を保つために逆に健常者(マジョリティ)は全て敵だという考えも生まれます。それは愛される障害者になれへのアンチテーゼ。自分の人生を生きる為には、なりふり構ってはいられないのです。

反感を買ってしまった部分が多いのですが、なぜそんなに激しいの?と、そういう部分を知るキッカケとして、多くの人の目に止まったことは良いことです。ぜひ考察の契機に。青い芝の会を参照

 

今回は、そう言った氏の特性(勢い)と背景。また家族と友達でのプライベート旅行だという条件により、多くの人からワガママだというレッテルが貼られました。

しかし、有事の際にも同じような社会からの対応では余りにも残念で目も当てられません。

この問題が同じ地平で語れる日が来ることを切に望みます。(声を上げたなら反論は当然あります。対立意見が止揚するまで止まってはいけません)

 

我々【CP者】が発言する場合考えなければならないことは、親兄弟から別れ一人ぼっちになった自分を想定した時、あるいは夕暮れの雑踏の中に放り出された自分(今の障害のままの)を発見した時、いかにさげびいかに行動すべきか…”

 全ての行為が罪の積み重ねであり、差別を伴うものであるとしても、なおかつ人は(私は)…”

 

横塚晃一がそう説いたのが40年ほど前。そして現場はやっぱり人対人。ましてや経済社会に割って入るには、法整備はもちろんですが、どこまで行っても人情抜きには難しいようです。

誰よりも人と関わって、人を遣って生きて行かねばならない立場上、社会生活技術として上手く言葉を紡ぐことはではないと思います。機械化が進むまでは。(ここ怒らないで!)

マイノリティにとって当たり前の社会の到来は非常に困難。

まだまだ詰められるスキマは有りますが、役割や立場を越えて手を取り合って、なんとか局面を越えていける社会も悪くは無いはず。それは法律(縛り)を越える瞬間も

 

実際、現場の駅員さん達は相当面食らったことでしょう。そこは労わりつつ、障害者と言えどもその時に絶対利用したい/しなければならない事情同じ人としてあると理解して欲しいのです。

障害者であっても人生は一度きり。ワガママに映ってもその人の譲れない価値観。可能な限り対応をお願いします。我々も同様に、一人ひとりに寄り添うように支援していかなければ。引き続き、社会は無理なく対応出来る工夫を考えて行かねばなりません。

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